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山内竧物語

第一章 志

心の原点~「クサミチンスナーヨー、ヤスンジレー」
(怒ってはいけないよ、許してあげなさい)

 んにちは。はじめまして。
 税理士の山内竧(やまうちただし)と申します。 
 難しい字ですね。
 よみがなを書かないと、ほとんどの方は読めないですよね。
 この名前と字は、私の父が戦時中に衛生兵として働いていた頃、部隊長の山下竧(やましたただし)さんから
     「男の子が生まれたら、この名前をつけなさい。」
 言われたそうです。
 
 立つという字の側に、身を書く訳ですから、命名の時から立身出世を願って暗示があったかもしれません。

 私が生まれた当時、私の家は戦後の貧しい生活を送っており、更に私の家族も含め父の兄弟家族が肩寄せ合って暮らす15名大家族でした。

祖母の写真 一家を束ねるのはひいオバァ(曾祖母)と母でした。頭にはクバ笠、肩にバーキ(籠)を担いで、元気にテクテク何キロも先の畑まで歩く姿を今でもよく覚えています。

 このひいオバァはことのほか私を可愛がってくれました。私が内孫で長男の子で男子という事もあったかもしれません。沖縄は長男を後継ぎでとても大事にする習慣が根強いですから。

 そのひいオバァは、ことあるごとに私に
 「クサミチンスナーヨー、ヤスンジレー
 (怒ってはいけないよ、許してあげなさい)」

と言いました。

 大家族の中では,毎日子供達もけんかをしてばかりで大変だったかと思いますが、ひいオバァはこの言葉を絶えず、私に言い聞かせ諭してくれました。
 逆境の時、いきどおることが幾度となくありましたが、ひいオバァの教えが私を冷静に判断させてくれていたのでしょう。

かわら家
 大家族の家計を支えてくれたもののひとつに家畜がありました。当時は家畜として養豚も盛んで、私の家も母豚2匹、馬1頭(馬車馬)を飼育していました。豚の出産の時には大忙しです。

 一度に10匹から13匹次々生まれてくる子豚を、母豚が潰さないように交替で見守り続けます。出産を無事に終え、豚舎がにぎやかになった頃夜が明けます。

 翌朝、生まれたばかりの子豚を見るのが好きでした。家族の安堵の笑顔がいまでも忘れられません。
 
 私はオバァーちゃん子でしたので、いつも肩たたきなどをして、喜ばせてあげたいと考えていました。小さな手で肩たたきをすると、オバァは大層喜んでくれ、更にやってあげたくなるものでした。感謝されればされるほど、尽くしたくなる・・私の面倒みがよく世話好きは、オバァが喜んでくれた幼少体験が根っこにあるようです。

イラスト 
 私が育った読谷村宇座というところはすぐ近くに海もあり、夏の夜はイザリといって、サザエを採ったり、銛(もり)を片手に蛸や魚を突き海の恵みを有りがたく頂戴していました。

 また、残波岬から眺める夕日は絶景で、雄大な浪漫を胸に染め付けてくれました。大きな自然の前では自分を飾ることなど、とてもこっけいで、自然のままいるのが一番だという教えを刻んでくれました。自然豊かな読谷村の深い懐に抱かれて健やかな少年時代でした。

 さとうきび収穫の時期は家族総出で畑にでて手伝いました。お昼時の畑で食べるタマナーチャンプルーとおにぎりは、どんな料理よりも格別でした。そういえば私が今でも料理で一番美味しいと感じる料理は素朴なチャンプルー料理ばかりです。

 実家のすぐ側は、当時の沖縄県主席である屋良朝苗氏(初代沖縄県知事)の奥様の実家でした。ある日その家の前を通りかかった時です。真剣な面持ちで、腕組みをしながら話し込んでいる男性の光景に足を止めました。見たことがある顔だな・・・子供ながらに「屋良主席だ」とすぐに分りました。

 私はその様子をとても鮮明に覚えていて、「あの人と話が出来るようになるにはどうしたらいいだろう?私も偉くなって、こんな立派な人と話ができるようになりたい。」と考えていました。

 皆から尊敬されている人は、間近で見ても芯の強さを感じさせる雰囲気がありました。子供心にも強い印象を残した風景でした。

第二章 青 »

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