第二章

手探りの自分探し


小学・中学・高校と読谷村で過ごした私は、将来の職業について深く考えることがないまま、田舎でのびのびと育ちました。特にディキヤー(秀才?)だった記憶はありませんが、親の負担を考えるとどうしても、大学は国立にしなければならない・・自然と自分に言い聞かせていました。




手探りの自分探し - 集合写真運良く琉球政府立(復帰前でしたので)琉球大学商学部に合格することが出来ました。田舎から那覇にでてきた大学生時代は、貧乏学生ながらも学生生活を謳歌して良く学び良く遊んだ4年間でした。

小さな古い下宿屋は、首里城に隣接していましたので、首里城を訪れた際、周辺を散策してみましたが、残念ながら建物はなく、懐かしさを偲ぶものはありませんでした。大学生活も後半になると卒業後の進路で悩むものです。私も悩むには悩んだのですが、決め手がないまま時間だけが過ぎていきます。心が定まらないので、なかなか就職活動もしないでいました。

当時、沖縄が本土復帰して第一号の国立琉球大学の卒業生となる世代ということもあり、のんびりと構える私に郷を煮やして、教授が東京の商社への就職を勧めてくれ推薦がでました。いざ推薦されると、急に真剣になって自分のことを見つめ直し、「私はどんな職業を選ぶべきか?」と自問自答していました。

私の小学校からの同級生に本屋の息子がいました。彼と友達なので日頃からよく彼の実家である本屋に出入りしていました。田舎での本屋という場所は、生活感がなく一番知的な場所として私の中では存在していました。その友人の父親、つまり本屋の主はある日、私達にこう言いました。「世の中には色々な職業があるが、税理士という仕事もあるんだよ。これからの世の中ではいいんじゃないか。」聞いたこともない「税理士」という言葉の響きは実に新鮮でした。何やら専門家のような言葉の響きです。

幼い頃、「偉くなって屋良主席と話がしてみたい。」と願ったことが、「税理士」になると出来るのではないだろうか?




手探りの自分探し - 集合写真単純な私は、職業と幼少体験をこのように短絡的に結びつけて、一人納得していました。

この納得は決断へと早変わりし、商社への推薦をあっさりと断り上京する決意をしました。

今にして思えば、国立となって一期生の卒業生の就職活動に、どれほど心を砕いて奮闘しておられただろう教授の気持ちを思うと、申し訳ない気持ちでいっぱいですが、この時の友人の父親の言葉と、決意がなければ今の私はなかったと思います。教授すみませんでした・・・。



親戚のツテを頼ってなんとか東京の新田会計事務所に就職することが出来ました。昼間は会計事務所で働き、夜は税理士専門学校へ通い、税理士資格を目指しました。高いとは思えない給料の中から、生活費と学費そして仕送りをすると贅沢をするお金など残らず、大学生活同様、貧乏でした。時折、沖縄から送られてくるポークの缶詰は何よりのご馳走でした。荷物と一緒に母からの手紙には「庭の桜が咲きました・・」と桜の花びらが同封されていたりして、少々センチメンタルな気持ちになったりしました。

しかし貧乏といっても、田舎でのびのび育った私はお金がないこともさして気にならず、愉快に楽しむような一面がありました。3日に一度、銭湯で飲むオロナミンCドリンクが何よりの贅沢な楽しみだったり、深夜勉強をしていてラジオから流れる歌謡曲に青春を重ねて楽しんだりと、苦しいことなどあまり覚えておらず、楽しいことばかりが記憶に残っています。置かれた身の上をひがむことなく、今のささやかな楽しみを満喫して気分転換する。これは後の、苦しい時代の私を支えた性格の一面であります。

心はすでに故郷沖縄にあって、壮大な夢を抱いていました。東京にはすばらしい人が沢山いる。ここでは私がいなくても大丈夫。私の力を必要としてくれる沖縄に帰って、沖縄のためになることをしよう。
生意気にもこのようなことを大真面目に考えていました。東京生活6年。税理士科目を無事に取得した私は、意気揚々と故郷に帰る日を待ち望んでいました。







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